山口好則さん [有限会社アマノ 営業]vol.1

(有)アマノで営業をご担当。女子会の活動にも設立当初から公私ともにご協力・ご支援をいただいています。

−「子供の頃はおがくずが工場のすみっこに固めておいてあって、ふわふわで。」

fg:今日は宜しくお願いします〜。今回、このコーナーのインタビューは実は山口さんが一人目でして。。。言わば「犠牲者」です(笑)。

や:そうなんですね〜(汗)。以前、「スギダラ」(注:日本全国スギダラケ倶楽部)の人も、俺のとこに突然インタビューに来たんだよね。しかもアポ無しで。もう8年くらい前だけど。

fg:じゃあ今日は少なくともアポ取ったんで問題無しってことで!宜しくお願いします。

や:はい(笑)。全然大丈夫です。

fg:まずは、山口さんのプロフィールというか、これまでどういうお仕事をされてきたのか、現在されているのかということをお話しいただけますか?

や:はい。
実は、俺の実家が昔細江町で製材所をしてたんだよね。昭和38年創業の、その名も「山口材木店」っていうんだけど。
で、子供の頃もたまに山に遊びに行ったりしたことはありました。

fg:へえ〜、材木屋さんのお家だとは全然知りませんでした!子供の頃から木に囲まれていたんですね。木との最初の思い出ってありますか?

や:子供の頃の一番の思い出は、おがくずの山でかくれんぼしたことです。今でこそ、おがくずは屋根の上のほうにサイロに上げられて、って感じなんだけど、子供の頃は工場のすみっこに固めておいてあって、ふわふわで。
それが最初の思い出かな。

fg:木とともに育ったんですねー。

や:そうだね〜。で、大学は名古屋の大学に行ったんだけど、就職活動は遊びほうけてたんだよね〜、いずれはうちを手伝うことになると思ってたし。
で、卒業してからは名古屋の材木市場に4年ほどいて、競り子をしてました。

fg:競り子っていわゆる競りをする人ですよね??

や:そうそう、「いくら〜、いくら〜」って声出して。魚市場とかみたいな、まさにあんな感じでやってましたよ。
それで、26の時に浜松に帰ってきて実家の製材所を手伝うようになって。最初は営業とかもやって、最終的には工場のほうに専念するようになりました。

fg:その当時はどんな材を扱っていたんですか?

や:その時は実は国産材は3割くらいで、ほとんどは米マツを扱ってました。マツと名がついてますが、本当はモミ(Douglas Fir)です。米マツは丸太で御前崎とか豊橋の港とかに運ばれてきて、それをこっちまで運んで製材したんだよね。長さは最大12mとかあって、それをトレーラーで運んで、製材機かけて。ただ、そのうち、外材の町工場での製材がどんどん減る時代がやってきて。

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fg:国産材が3割っていうのは意外ですね。製材屋が減ってきたっていうのはどうしてなんでしょうか?

や:一番は材木の乾燥の問題。大手の製材工場が進出してきて、ちゃんとした乾燥技術で材木を乾燥するようになったんだよね。品質も安定するし。
それで、俺が42の時に実家の材木屋が廃業して、実家は別業種の商売をすることになったんだよね。
で、その時、なぜか自分一人だけそこから飛び出しちゃって。(笑)ネット関係の仕事に就いたんです。意外でしょ?

fg:はい、なんか全然畑違いって感じですけど。。。

や:といっても、一応材木には関係があって、「材木ネット」っていう、仮想マーケティングプレイスをやってたんです。要するに、産地からの情報を集めて共有して商売につなげる、みたいな。
パソコンを始めたのは35のときなんだけど、ちょうどウィンドウズ95の発売の時でした。